清廉潔白

今年も、みちのくに「黒石寺蘇民祭」を訪ねた。

平日只中の挙行となった今年は、俗界からの人出も鈍い。
しかもその日は、「真冬の底冷え」
暦の上では立春を過ぎたが、北の風は容赦を知らない。
何の思召しか、一山周辺は局地的な降雪で、
否が応にも、祭の気分を盛り上げてくれる。

まずは地元の温泉で暖を取り、
山中の堂宇を目指しタクシーに乗った。
綿雪が深々と降り積もり、往来も随分と寂しくなる。
本当にこの道で大丈夫か、とばかりに片側へやおら停車する車両を掠めて、
曲がりくねった坂道を、右へ左へと越えてゆく。

早めに到着したのには理由がある。
多くの人々は「蘇民袋争奪戦」の行われる早朝4時を目指すが、
クライマックスだけを拝んだのではそろそろ礼を失しないか。
そんな思いが脳裏をよぎったのだ。

そのせいか、どうもいつもと、眺めが違う。
祭を取り仕切る古老たちの姿が、かつてほど見当たらない。
一升瓶が転げる酒宴も無い。
あるいは鬼籍に入り、闇夜の天上から見下ろすばかりとなったか。

寺印が捺された真新しい晒と、黒足袋が売られている。
売店には梅干しと甘酒。
蘇民食堂には蕎麦と地酒、粗削りさが祭に似つかわしい木札。
「褌の締め方分からないんですけど」と、
札所に駆け込む二十歳そこそこの童顔たち。
今や風物詩とさえ言えるが、時代の流れである。
地元の有志と思われる青年が圧倒的に多い。
その姿は、用意周到な装束の違いで分かる。

祭は「夏参り」と呼ばれる、一連の「清め」で始まる。
いや、厳密に言えば、この一週間前から行われる「御精進」からが本来の始まりだ。

肉や魚は勿論のこと、
大蒜や葱といった刺激のある野菜、さらに女体との接触も忌み事となる。
夏参りの参加者はこの間、いかなる理由であってもこれを守らねばならない。
味噌汁の出汁取りを嫌うなど、原材料に遡る徹底した戒め。
冗談としても「草食男子」とは正に、言い得てこのことである。
この精進により五感が一層鋭敏になるとも聞く。
世に言う「草食系」とはまるで違うのは、彼らの眼差しの凄味。

場内呼びかけを待たずして、彼らは莚小屋で徐に裸になる。
かたや手慣れた手つきで締め込み、かたや手さぐりに近い所作で晒を巻く。
あぁでもないこうでもないと仲間内で笑いあいながら。

かつては晒胴巻きも目立ったが、今は違う。
昔は奇祭と言うより秘祭に思えたが、そんなおどろおどろしい雰囲気も無い。
潔く六尺褌一本でスッと飛び出し、気勢よく雄叫びを上げる。
細波が大波に交わるように、また一人また一人と、男の背中が増えてゆく。
裸の大群は灯を手に、「ジャッソー」の掛け声を上げながら寺を巡る。
勢い、足元も見えない坂道を、ずっと標高差のある極寒の川面へとさらに下る。
その水垢離場を「瑠璃壺川」と言う。

漆黒の闇夜に、雪の白、褌の白。
その「白」は、脳裏に浮かぶ一切の世俗を消し去った。
まさに「清廉潔白」

墨文字の黒が蝋燭の灯に揺れて、
照らされる男たちの凛々しい表情と言ったら無い。
その姿を追う娘たちの眼差しは熱く、
誰彼ともなくその名を叫ぶ者もいた。

彼らはあれよあれよと水に沈んでは飛沫を上げ、
氷点間近の水を桶に汲み、真上から全身に浴びせる。
その勇壮な姿を我先に捉えようと、大勢のカメラマンが対岸に陣取る。
あるものは水面に浸り、急斜面を転げ押し合う。
彼らの眼差しもまた、真剣そのものである。

瞬くフラッシュが一瞬に重なると、その水面は
まるで瑠璃のように碧く輝き、幻影となる。
さながら舞台。男たちは大見得を切るように、シャッターの奥に収まる。
清々しい。

画像



しかしまだ、これはほんの序章に過ぎない。
冷え切った体そのままに、寒風に身を晒しながら崖っぷちを往く。
元の本堂へ上り、さらに奥にある山中の石段を上がっては御堂を巡り、
再び下っては身を清める。
都合三巡、到底、平常心で居られない。
男たちが群れ成す光の帯は圧巻。
この頃、馨しく官能的な香が焚き染められ、渾然一体となった空間は
見るものをすっかり虜にする。

行者でも修験者でもなく、
ごくありふれた日常を過ごす人々がこのような荒行に進んで挑む。
生まれたままの姿で土に、水に還る。
その貴さ、美しさ、清らかさ。
裸から発せられる、もうもうと立ち上る湯気は尋常ではない。

「一番きついの、これで終わりですか?」
初めて参加したと見える若い声が震える。
いや、濡れた体を拭いてもこの寒さは芯に来る。
手足指先の凍りそうな夜を徹して、これから睡魔とも戦わねばならない。

束の間、男たちに許されるのは、
小屋の中で小さな焚火を囲むこと。
各々緩めた褌を梁からぶら下げ、簾となる様もまた、この祭ならでは。
日付を跨いで、次は火と煙に清められる瞬間を只管に待つ。
火の粉を浴びるから、濡れた褌を替えることはしない。

「4時から?」
「一番冷える時間だな・・・」

どうも、この辺りが「境界」らしい。
ベンチコートを羽織る者は次への備え。
すっかり「今どき」の普段着に戻った者もいる。
もはや堪えかねてもおかしくはない。

「キャンプファイヤーは何時だ?」
地元の人がおどけて見せる「火たきのぼり」
生木と乾いた丸太を組み合わせて、上手に組み上げる。
この周りを廻って、さらにその上の上るという「清め」
不思議なことに、服を着ているよりも素肌に当たる火が温かい。
どうも「冷やかし」たちは、この辺りからの途中参加のようだ。

ここからが、「いつもの蘇民祭」
本来の流儀を外しての途中合流の面々に、
何か急に俗が聖に入り組んだような、率直にそんな気がした。
逆に「聖」は、この時点で幾人か離脱していたように見える。

本堂には、「クライマックス」を撮り貯めようと多くの俗人が入り込む。
数年前の「ポスター騒ぎ」にはうんざりしたが、
聖を俗なものへの穢す過程そのものがそこにはあった。

裸の男たちは、足袋しか履いていない。
その足を、ブーツや長靴で徒に痛めるのは如何なものか。
一脚にビデオやカメラを取り付け、高所から狙う。危ない。
少なくとも、争奪戦の間は堂内に立ち入るのは止めさせた方が良いと思う。
寺と祭と、その保護保存に携わる方々の「尊厳」のために。

「クライマックス」と言う言葉を避けたいとさえ思った。
「何時頃が一番面白いんですか?」
そんな来訪者の言葉も、理由の一つではある。

時代は変わっても、祭を巡る歴史の中で、
あらゆる所作が守られてきたことの重さ、
これからも守られてゆくであろうことを、噛み締める。
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