様式の美 用の美

鬼太鼓座 北本公演
「疾風迅雷」鬼太鼓座 暁 akatokiを駆ける! へ。

小旅行気分で、電車に揺られると、
人波を抜けた穏やかな年の瀬。
午後の景色は、初春を思わせる麗らかさ。

丁度良い散歩で会場へ。
「最後まで居なくたっていいんだろ?」
入口で、いきなり驚かされる。

団体行事での観覧なのだろうか。
彼はこれから出会おうとする舞台を、
世界に知られたこの存在を
きっとまだ知らないのだろう。
直にそれは、間違いなく覆される。
私にとって正にそれは、
他人事であっても至福ですらあった。

想像以上に立派なホールだ。
ステージは奥行きが深く、
幕が開けばその瞬間、
我々はもう既に別の世界へと誘われている。

振り絞る響きに、空気が締まる。
緊張感を増すのは、観客の側である。

横笛の指遣いを、もっと近くで見たいと思った。
隣りの席の外国人は聊か興奮した様子で、
双眼鏡の奥をじっと追う。

前段を端折ってしまう勝手を、お許し頂きたい。
ステージに据えられた大太鼓は、斜めを向いている。
このスタイルを目の当たりにするは初めてだ。
全身全霊、背中で語る「いつもの」形勢から、
奏者の表情まで窺いうる角度になった。

外界の静けさをよそに、それは雷鳴の如く唸る。
「ニッポンイチ!」
絶妙な間合いで、
観客席の後背から切れの良い掛け声が飛ぶ。
屋台囃子のうちの一人は新人のようだ。
腹筋を駆使ししなる体躯に、往年の座員を重ねた。
幼さの残る表情には初々しさがある。
褌一丁、身を露わに打つことに、
まだ迷いや恥じらいが見える。
ただ溌剌とした撥のキレが、目に、耳に、心地いい。
恥じ入るような無駄は、一分も無い。
その成長を見守りたい。

太鼓はやはり、こうでなければ。
そんな思いを新たにする。
思い込みだと言われても。

兎角、人は世に新たなものを問うとき、
「過去を否定」してしまう。

伝統とは革新の連続と云う。
ここで言う革新とは、「肯定」だと私は考える。
鉢巻・半纏・褌といった「衣装」の否定を謳うことは、
太鼓を通じた表現そのものに、何ら関わりの無いこと。
他のシンボルの否定は、自己否定ですらある。
だが、こうしたことが
自己表現の場で語られることを憂慮する。
敢えて言上げせずとも、この国には
「新たな試みを評価する土壌」が
まだまだあるのだから。

途中退席する人など、一人もいなかった。
当然である。
この圧巻の世界を、誰ひとり見逃すべきではない。

佳き音は、確かに継承されてゆく。
一つの時代を創り上げたムーブメントは、
伝統とは呼ばれずとも、
一つの確立された様式美、
そして用の美だと信じたい。

この春、映画「ざ・鬼太鼓座」が
デジタルリマスターで息を吹き返す。
創立者が、出演者が、制作者が、
それをどう評価したか。
そんな過去を含めて、再評価される時代が到来している。
文化を取り囲む環境は、絶えず自由だ。

人も替(変)わる。
何もかも、ずっと同じではない。
そんな思いに至る。
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