七日堂裸まいり

山奥、という感じはしないのは、
思いのほか雪が少ないからだろうか。
こんもりと緩やかな丘に抱かれ、眼前には遥か水面が開ける。
急峻な崖上に建つ堂宇に至ると、夕刻を告げる寺の鐘が鳴る。
うねる様なその響きに耳を澄まし、遠くを見やると、
ここにずっと逗留したくなる、そんな郷愁にも誘われる。
真摯な祈りの時に備えて、参道の石畳を掃き清める人の姿が美しい。

会津柳津、臨済宗 妙心寺派 円蔵寺。
「柳津虚空蔵尊」として高名である。

東京から遠いのが、いい。
ひたすら電車に揺られて辿りつく若松城下。
さらにそこから県境を隔てる奥の会津へ。
これが豪雪だったら、右も左も判らないモノクロの世界。
真冬、車で来るにはなかなかどうして、勇気が要る。
この地に到るのは、二度目となる。

改まる年の初めの清々しさ、その日の町は祭の前とは思えない。
世にいう「七日堂裸まいり」である。

ここが七日堂と呼ばれるのは、この日、ただ一日。
一年に一度の、この日のみ。
闇の中、300人もの男たちが褌一つでここに集うのだ。
ただ、その3時間も前から陣取る輩がそこに蠢く。
若衆が走り、よじ登る綱を目がけて、早くも凌ぎを削る。

円蔵寺は数年前、この祭りで堂内の写真撮影を禁じた。
その動画で利を得ようとする動きがあったためと云う。
三脚の持ち込みも明確に咎めている。
しかし、世俗の人間には通じないのだろうか。
レンズは既に壇上を向いている。

寺は、参加者にも自制を求めた。
「背中に願い事を書くこと」を禁じたのである。
「自身の願意だけを求める場ではない」という
極めて教義的な理由。
歴史ある行事を護持する人々の、見識の高さが窺われる。

褌一つになって、町中を裸足で過る。
真冬の夜に冷水を浴びて、男たちが駆ける。
この所作とは、まさに私利私欲との決別である。

その発祥からして、厄災を消除し皆の幸福を願う本来のあり方に
回帰しようということは、現代、観光の名の下に諸々組み込まれてしまった
多くの祭事では、勇気のいることである。
まさに、「英断」以外、言葉が見つからない。

この決まりは徹底していて、
誰一人これを乱す者は無かった。

ただ後日、気になったことがある。
この祭礼を報じる、大手の報道機関による
「ふんどしに似た下帯と呼ばれる衣装」という表現である。

私の見識不足かも知れないが、
「下帯」は「ふんどし」の別名ではなかろうか。
記者が想起する「ふんどし」が何を指すのかは判らないが、
少なくとも「下帯」は、この祭礼に固有の衣装では無さそうだ。

ともあれ、糾弾するつもりは毛頭ない。
言葉が馴染み薄さが、理解を妨げてしまう時代が来たという事だろう。
自身、非力に猛省するばかりである。

この記事へのコメント

中年褌男
2017年03月01日 23:32
褌について、若い人だと巻くという表現を使うことが
多くて違和感を覚えることもあります。褌は締めるが
正しいと思うのですが。これも普段は馴染みが薄いので、
そうした表現になったのでしょうが。
中年褌男
2017年03月02日 06:28
寺側が観光化を防ごうとする見識の高さにも関心させ
られます。「個人の願いではなく、皆の幸福」という
のがさすが仏教本来の姿だと思います。裸祭りが本来
の起源から離れて、単に観光化してまう現状下での英断
はすばらしいですね。
2017年04月16日 22:04
>中年褌男様

私も常々、気になっております。
褌を「巻く」または「穿く(履く)」
これらは明らかに日本語として間違いですね。

胴巻きとして晒しを巻くのとは違う行為ですし、
パンツに足を通すのとも違う行為です。

「締め込み」と呼ぶ場合もありますが、
まさに六尺は布を締めて体に食い込ませるもの。

「褌を締め直す」の慣用句も
この連想がなければ成り立ちません。
尤も、これも今では死語の部類ですが…