会津再訪

本当に不思議なことがある。
晒半反ただ一つ、褌を締め上げてから、
針を刺すようなあの冷たさは、
どこへ飛んでゆくのだろうか。

会津柳津虚空蔵尊・七日堂裸詣り。
今年もこの場所にある事を慶ぶ。

荒くれ者の祭りではない。
それは、この坩堝に立って初めて解る。

裸の男たちが、夜中の石段を駆け上がる様は壮観である。
時に、褌は袴、鉢巻は冠だと考える祭りがあると聞く。
山門を越える時に与えられる鉢巻は、正に入門裁可のようで、
愈々眼前に待ち受ける「水垢離場」への意気も高まる。

男たちは、上に往くほど太くなる独特の荒縄を上る。
当然、誰もが頂点を目指しているように見える。
ところが、目を凝らせば、
腕を組んで微笑ましく見上げる笑顔があるし、
後ろに続く人に「足元に段差があるぞ、気をつけろ」と諭す声がある。

我も我もと裸は続くが、
人を押しのけてまで進む影に限ってはなぜか身を崩して、奈落の底へと落ちる。
後悔しても始まらない。
元の場所に戻るにはあまりにも壁が高い。
男たちの裸の壁が。

かたや、勢いに押されて倒れた子には、
誰からともなく救いの手が差し伸べられる。
まるでこの空間が、俗世の縮図を一幅の画に収めたかのように。
人いきれ、満ち満ちた熱気は、混沌の渦となる。

遠巻きには分からないが、堂内は複雑な構造をしていた。
綱に向かう一角が、舞台のように前へとせり出している。
皆その「ステージ」へ躍り出ようと、必死の揉み合いだ。

その舞台に立てば、目指す場所は近い。
ところがそれを許さないのが世の常で、
奈落に蠢く人の波は激しく綱を揺すり、
よじ登る裸はそれに耐えなければならない。

裏手に回れば、またここに人間模様がある。
スクラムを組むように、じっと下支えしている男たちがいる。
自らは舞台に上ることなく、ひたすら見知らぬ他人を持ち上げる。
脚光を浴びるのは、舞台の上でもごくごく一部だ。

天井の梁から救い上げる人。
人目につかない裏舞台で忍ぶ人。
なぜか、いずれも、笑顔である。

笑顔はないが、ともすれば都会の通勤ラッシュそのもの。
ただ、裸の波は摩擦を捨てて、人と人とを直に繋ぐ。
天に立った者だけが何かを得られるわけではない。
衣を捨ててこの場で祈りを捧げた者には、一様に守り矢が授けられる。
ではなぜ、人は頂きを目指すのか。
これは禅の境地のようにも思えてくる。

なぜこの場所の、なぜこの時期に、
なぜを繰り返せばキリがないが、
それをなぜと思わせるほど、時の移ろいは激しく、
また知り得ぬような変化を重ねている。

不思議の大海の中で、泳ぎ辿り着いた先に
変わる事の無い蓬莱の島があるとしたら、
それこそはこの、只見河畔に映る円蔵寺かも知れない。
そんな趣のある古刹である。
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