「道」

筋骨隆々、褌姿も勇ましく。
大太鼓に立ち向かう益荒男の姿が、そこにある。
太鼓芸能集団「鼓童」の、全国公演「道」のポスターである。

ここ暫く、彼らは強い肉体表現から距離を置いていたように思う。

新しいチャレンジに向けての一環だったのかも知れない。
が、この転換に戸惑いを覚えた人は少なからずおられたようだ。

もはやこのスタイルは表現方法として確立されていて、
日本の太鼓の歴史としてしっかり成立している。
時にそれは、アマチュアの太鼓団体が取り入れるほどで、
無論、それは「鼓童に対する最大限のリスペクト」だ。

それが今、改めて見直され「回帰」したと捉えてよいのだろうか?

何一つ、失うものも隠し得るものも無く。
「なぜ褌一つで太鼓を打つ必要があるのか」と問われれば、
いま、多くの人は説明に窮するだろう。
敢えてこのことに、筆をとっておきたい。

「緊褌一番」という言葉が、死語になりつつある。
ほぼ褌を引き締めることが、経験として無くなったからだ。
こと六尺褌について、クラシックなアンダーウェアという理解は正しくない。
この背景にある文化に言及するとき、スピリット、ソウル、タフネス。
諸外国の人々に伝えるには、言葉があまりにも足りない。
しかし言葉を尽くし本邦の人々へ伝わるのかさえも、
疑わしい時代なのである。

日本人は、「儚くも正々堂々と美しいもの」に惹かれてきた。
茶道、華道、剣道、柔道、相撲道。
そこには明確な、精神ないし肉体の鍛錬がある。

清らかにして、正しくあること。
これは「神道」にも連なる崇高の理念である。
神事における褌とは、まさにこの体現に他ならない。
飾らないことの美しさは、あらゆる「道」に通じるのである。

贅を尽くした豪奢な衣装ではなく、僅かな布きれに集約された「潔さ」
我が身に代えて、思いを背負い、
身一つで尊い何かに近づいて行く奏者の在りように
そこはかとない有難さを思い、思わず合掌する。
そんなメンタリティが、確かにあった。

今の大太鼓は、往年のそれとは違っていた。
かつては極限まで躰を絞り上げた若者が、これでもかこれでもかと太鼓を打った。
さながら舟を漕ぐような姿勢で挑む演目「屋台囃子」では、
腹筋の凹凸も明らかなほど、無駄を削ぎ落とした姿で奏者は舞台に立った。
もういいじゃないか、十分じゃないか、と思うのだが、
彼らの撥も流れる汗は止まることを知らない。
大勢の観衆の拍手が、裸一貫の純な若者たちへと向けられる。

奏者らはむしろ小柄で、見上げるばかりの巴紋に立ち向かう姿は
それだけで健気ささえ覚えた。
全身から立ち上る湯気と噴き出す汗の光が満ち、
その意気や良し、とばかりに会場は半ば陶酔したような空気が満ちた。
これは、判官贔屓に似た感覚だろうか。
高揚する空気は少し、神楽にも相通じるものがあった。

今はどうか。
ギリシャ彫刻のような立派な身体の男が、
有り余る力に寄せて和太鼓を打つ。
それはもうかつてのスタイルとは違っていて、
むしろ、以前より明確に肉体性を誇示するもののように私には見えた。
褌と言うよりloincloth、ここには無国籍的な何かを感じた。
和太鼓が鼓童と言う偉大な存在によって
舞台芸術に昇華されるうちに、
日本人も、日本を取り巻く環境や価値観も
これだけ大きく変貌を遂げたのだ、と。

とは言え、薄暗闇の奥の方から、
迫り出す櫓に乗った大太鼓と、その前に控える奏者のいでたちは
日本人の我々にとっても非日常の極致であり、
先ほどまで幕間に感想を漏らしていた観衆もこの時は絶句する。
祭にも伝統芸能にも無いこのスタイルに「日本」を感じさせるのは、
他ならぬ鼓童のたゆみない努力の結晶である。

この絶句こそは、聖なるものに触れた時の畏怖そのものであり、
祝祭の扉を開いた心の高鳴りによるものであろう。

本公演では、異国の笛を吹き鳴らす輩とともに、
神官のような男が舞いながら大太鼓を導く。
新しい時代の幕開けを告げるかのように。

ぜひ一度、舞台をご覧になられてはいかがでしょうか。
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